宿願の大和統一へ
〜松永久秀の滅亡〜

辰市城の戦いで勢いを失った松永久秀に代わり、順慶は信長から念願の大和支配を任されます。そして積年のライバル松永久秀は、またもや信長に背いて信貴山城に滅びます。


順慶、大和支配権を得る

 順慶は久秀が信長に降参した直後の天正二(1574)年正月二日、美濃へ赴いて信長に随身し、十一日には多聞山城番として明智光秀が入った。
 南都ではこの後、光秀に代わって三月に多聞山城に入った柴田勝家が一時政務を執ったようであるが、信長は翌三年三月二十三日に原田(塙)直政を大和守護に任じた。順慶と久秀はこの年の十一月から翌天正四年三月にかけて十市城をめぐって小競り合いを起こすが、原田直政の存在もあってさほど混乱はなかった。しかし四月に信長と和睦していた本願寺が再び挙兵、順慶は直政や明智光秀・細川藤孝らとともに摂津へ出陣する。しかし本願寺に加担した雑賀鉄炮衆の威力は強烈で、五月三日には原田直政が三津寺で戦死、織田勢は苦戦の末に本願寺方を石山御坊に追い込んだものの、急を聞いて出陣した信長自身も負傷する程の激戦であったという。

 さて、ここで大和の歴史が動いた。戦死した原田直政に代わって、五月十日に筒井順慶が信長から大和の支配権を認められたのである。ただ、この時点では大和統治の全権を委ねられたわけではなく、後々の『多聞院日記』等の記述を見ると、どうも明智光秀の指揮下にあったようである。なぜ信長は光秀に直接大和を統治させなかったかだが、大和は古くより寺社勢力が強く、興福寺が守護の代わりを務めていたことは前に述べた。しかし興福寺の力が次第に衰えると国人衆たちは個々の利害から離合集散を繰り返し、戦火の絶える日はなかったと言っても過言ではない。原田直政が失政をしたというわけではないが、こんな地の国人衆を束ね治めるには、興福寺の内情に精通した順慶以外に適任者はいないということを、信長もよく理解したのであろう。加えて順慶が信用するに足りる人物と判断したこともあろう。

「一 今日巳剋ニ、和州一國一圓筒井順慶可有存知之由、信長ヨリ明智十兵衛・万見仙千代兩使ニテ被申出之由、從森弥四郎折帋ニテ成身院ヘ注進在之、於事實者寺社大慶、上下安全、尤珍重〃〃」(『多聞院日記』天正四年五月十日条)

 明智十兵衛とは光秀、万見仙千代とは信長の側近で後の有岡城攻めの際に戦死する重元のことである。「於事實者寺社大慶、上下安全、尤珍重〃〃」の記述に見られるように、多聞院英俊ら南都の寺社方はこの報せを大喜びで迎えたことが読みとれる。
 一方、これは久秀にはショックであったに違いない。事実、翌年八月に久秀は突然信長に背き摂津の戦線を離脱、信貴山城に籠もって十月十日にその生涯を終える。「久秀最終の謀反」の根底には、大和守護の座を筒井順慶に奪われたショックが尾を引いていたに違いない。


雑賀攻め

雑賀周辺図  大和での大きな戦いはほとんど無くなった代わりに、順慶は信長の命により天正五年二月、紀州雑賀攻めに出陣した。これは非常に大規模なもので、信長は十万もの大軍を率いて出陣している。和泉信達(しんだち)で軍を浜手と山手の二手に分け、順慶は滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂谷頼隆・細川藤孝らとともに浜手を進んだ。ちなみに山手の将は佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・堀秀政・別所長治・別所重宗らである。信長麾下の名だたる将が顔を揃えていることがわかる。

 浜手軍は雑賀衆の抵抗を受けながらも孝子峠から紀ノ川右岸の中野城へと向かう。山手軍は風吹峠から南下して紀ノ川を渡り、雑賀城の東・小雑賀川(和歌川)を挟んで陣を敷いた。
 迎え撃つ雑賀孫一らは潮の干満なども利用し、川底に無数の壺を埋めて敵の来襲を待っていたが、そうとは知らない信長勢は堀秀政が先陣となって数を頼みに殺到、たちまち川底の壺に足を取られてもがいているところへ後続兵が次々と押し寄せ、パニック状態となった。そこへ孫一指揮する雑賀より抜きの鉄砲隊から一斉射撃を見舞われたのだからたまらない。信長勢は小さな川一つ渡ることも出来ず、多数の死傷者を出して退却、戦いは膠着状態となった。

 しかし、結局は兵力差があり過ぎた。順慶らの浜手軍に中野城を落とされたことから、孫一は一族と相談の上で誓詞を認めて降伏を申し出た。これとて本来なら信長の性格からして認められようはずもなく、普通なら孫一らの首は取られていたはずである。しかし、信長にもそう長く紀州にとどまってはいられない事情があった。紀州で手間取っていると、前年七月に大坂木津川口の海戦で苦杯をなめた毛利氏の動向も含めて周囲の情勢がどうなるかわからないこともあり、信長は孫一の降伏を受け入れて兵を引き上げていった。


松永久秀の滅亡

 信長に再度降伏した久秀はしばらくは鳴りを潜め、この間の事績は不明である。また天正二年十二月に剃髪して道意と号しており、翌三年四月に十市郷の三分の一が久通に与えられているので、おそらく表向きには隠居したものであろう。降伏後の久秀・久通父子は初め原田(塙)直政の麾下にあり、直政戦死後は佐久間信盛に属したようである。
 ところが信長が本願寺を攻撃中の天正五年八月十七日、久秀は突然摂津天王寺の陣を払って戦線を離脱、信貴山城へ籠もった。信長は詰問の使者松井友閑を派遣するが久秀は応じなかった。この背景には本願寺やすでに東進中の毛利勢・上杉謙信との連繋、さらに信長の主力が北陸へ向かっており手薄という事実があったというが、久秀程の謀将としては簡単に誘いに乗りすぎた嫌いがあるように思える。事実謙信は途中から引き返しており、後の言動を考えると足利義昭の催促はあったにせよ、この時謙信に明確な上洛の意図があったかどうかは少々疑問である。むしろ久秀の心底には宿敵筒井順慶の支配下に置かれた屈辱が常にあり、それから脱却できるならばと本願寺等の誘いに渡りに舟とばかり乗ったのかもしれない。もちろん失敗したときには確実に破滅が待っていることは百も承知の上でである。

信貴山城祉碑  信長は嫡子信忠を総大将として信貴山攻めの軍勢を発した。別働隊が十月一日に久秀の重臣海老名・森の籠もる片岡城を落とし、また信貴山城攻めの本隊先鋒が法隆寺に着陣した。三日には信忠も到着、五日には人質として預けられていた久通の子(十二・三歳)を京で市中引き回しの後六条河原で処刑し、同日四万の兵が信貴山城へ一斉に攻め寄せた。
 多少の抵抗はしたものの、力尽きた久秀は十月十日に城に火を放って自刃、ここにその生涯を閉じた。享年六十八歳という。(写真は信貴山頂に残る城址碑)
 『和州諸将軍傳』によると、かねてより久秀方に潜入していた筒井方の森好久が久秀から石山本願寺に救援を要請する使者として選ばれたのを機に、松蔵右近の謀略によって救援に駆けつけた本願寺勢と見せかけた筒井勢を城に送り込み、内部より攪乱し落城させたとする。

 こうして大仏殿が焼けた永禄十年十月十日からちょうど十年後の十月十日、順慶宿命のライバル・松永久秀は灰になった。『多聞院日記』によると、大仏殿の焼けた翌日は雨が降っていたが、信貴山落城の翌日もまた冷たい雨が降っていたという。


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