戦国筒井氏年表 No.4
明応八(1499)年〜大永七(1527)年
* 印は閏月を示します。
西暦和暦日付事績
1499 明応8 1/30 尚順が河内十七箇所に義豊を破り、義豊は自刃し子の義英は没落する。宝来・秋篠・超昇寺・布施・伴堂氏ら大和国人衆も参加。
    9月 尚順が摂津に入り、白土・秋篠・宝来・超昇寺・坂上氏らを山城に侵入させる。前将軍義材・尚順・筒井党 VS 細川政元・義英・越智党の構図。
    10/26 古市氏を除く国人衆に和睦の動きが出るが、多武峰衆の反対により成立せず。
    11/22 筒井藤王が西南院にて得度、順賢を名乗る。
    12/18 細川政元の将・赤沢朝経(沢蔵軒宗益)が古市澄胤の導きで大和へ侵入、筒井党を撃破。成身院・筒井氏以下豊田・番条・十市・楢原ら筒井党は没落。奈良及び国中各所が焼かれる。
1500 明応9 6/1 赤沢朝経が配下の籾井に大市・田井・若槻・番条・伊豆七条の各庄を支配させる。
1502 文亀2 11/27 相次ぐ戦いで餓死者が続出し、大和国人衆に和睦の動きが出る。
1504 永正1 11/27 大和国人衆が八木寺に於いて会合する。
    12/17 河内両畠山氏に和睦の動きが出て両者会談へと向かう。
1505 永正2 2/4 布施・箸尾・越智・十市・筒井氏が中院で会合、春日社頭に起請文を掲げて結束する。
    2/24 筒井順賢のもとへ越智家令の娘が嫁ぐ。
    8/28 再び中院で会合があり、前回参加しなかった国人衆も加わって起請文に連判、大和国人一揆が成立する。
    11/19 朝経が河内出陣に際して大和を通過する旨を通告するが、布施・箸尾・越智・万歳・吐田・楢原・片岡・筒井氏が連判状を作成して反対する。
1506 永正3 1/23 畠山尚順から筒井・十市・箸尾氏に河内への出陣要請が来るが、同氏らは法貴寺に集まって可否を談合する。
    1/26 朝経が河内誉田・古市へ攻め入り、両遊佐氏は高屋城へ入る。
    1/28 朝経が高屋城を落とす。
    7/24 細川政元が先の河内合戦への大和国人衆不参加を責め、加えて河内牢人衆を匿ったとして朝経に出陣を命じ、成身院宛にもこれに従うよう通告する。朝経は宇治へ軍を進める。
    7/28 朝経が木津まで軍を進める。
    8/2 朝経が吐師・相楽・山田周辺へ陣を移す。秋篠・宝来は自焼。超昇寺氏は木津氏の仲介で京軍に降伏する。
    8/3 朝経が西大寺周辺へ陣を移す。赤沢新兵衛(長経)は郡山に布陣する。
    8/4 順賢・成身院順盛(順宣)が井戸城を開城し没落、越智・箸尾・十市も同調する。朝経は郡山へ陣を移す。
    8/11 戒重城が落とされ越智氏は大窪へ、十市・箸尾氏以下は多武峰へ、筒井氏は東山内へそれぞれ没落する。
    8/16 順賢が「北方一国一揆」を結成する。京衆は通路を塞ぐが順賢は京衆に加担した古市・山村・藤原・横井・長井氏らの在所を焼き奈良へ入り、奈良にいた古市丹後(胤盛)は没落する。
    8/18 山内衆が悉く筒井方の与力となる。
    8/24 朝経が数千騎を率いて筒井党を攻め、筒井党は総崩れとなる。郡山城は落とされ十市・箸尾・越智氏ら南脇衆は多武峰に、北脇衆・筒井氏以下は吐山周辺へ退く。「依之北脇国中者京衆ノ知行分也」と見える。
    8/27 朝経が多武峰攻撃のため香久山に陣を移す。
    9/5 朝経が多武峰に総攻撃をかけ、これを落とす。
1507 永正4 6/23 細川政元が京都において澄之・香西元長らに暗殺される。
    6/24 香西元長が細川澄元を攻撃、澄元は没落し近江の国人青地氏のち山中氏を頼る。
    6/27 丹後出陣中に政元暗殺の報せを受けた朝経が軍を返すと石川らの一揆が蜂起してこれを攻撃、朝経は丹後にて自害し和久掃部・古市丹後は討死。大和では国人衆が悉く入国を果たす。
    9/4 畠山尚順・義英が遊佐氏を使として大和に派遣し、大和国人衆に合力する旨を伝える。
    9/10 赤沢朝経の養子長経が宇治を出陣し木津・狛・祝園に着陣、対する大和国人衆は戌亥脇衆(筒井党)が郡山周辺に陣取る。
    9/15 箸尾・十市・楢原氏が奈良に入り、宿院堂・西御門堂・内侍原堂にそれぞれ布陣する。
    9/16 越智春竹丸が京衆に対抗するため筒井に出陣、河内から畠山氏の足軽たちも鳥見・生駒越えに入国する。
    10/6 大和国人衆が山田周辺へ攻撃、京衆も反撃し木津から打って出て奈良各所で合戦となる。
    10/18 長経らに加えて古市・三好越後・丹波五人衆らが一斉に攻撃を開始、大和国人衆は総崩れとなり筒井氏以下十市・箸尾・楢原・成身院・片岡・越智氏らは没落。京衆は奈良に入る。
    11/4 長経方が京都へ引き上げる。没落した大和国人衆の落ち行き先に「十市河内太子、箸尾、筒井・成身院高屋、越智下渕近所、楢原トチハラ、布施吉野」と見える。
    11/13 大和国人一揆が再び蜂起、京衆を奈良まで退かせる。
    11/17 国人一揆が各所で京衆と戦うが敗れ、「一国悉以焼払了」という結果となる。筒井・十市氏は宇智郡に逃れる。
    12/4 河内両畠山氏の和睦が敗れる。義英は嶽山城へ入り、尚順は宇智郡隅田寺へ出陣。大和国人衆はほぼ尚順方に参陣する。
    12/10 尚順が細川澄元と和睦、嶽山城に義英を攻める。
1508 永正5 7/1 周防の大内氏のもとから前将軍義尹(義材)が上洛、新将軍となる。将軍義澄は近江に逃れ、以後義尹と義澄の抗争が続く。義尹方には細川高国・畠山尚順・筒井順賢・十市遠治ら、義澄方には細川澄元・赤沢長経・畠山義英・古市澄胤・越智家令らが加担、国人一揆は崩壊する。
    7/19 長経・古市澄胤らが順賢らの兵を奈良に破る。
    7/20 幕府の命により尚順が長経討伐に向け河内に攻め入る。
    7/26 長経が高屋城を攻めるが後詰めの尚順軍に敗れ、遊佐弾正兄弟・古市澄胤は自害。長経は大和へ逃れる。
    7/28 長経が大和初瀬において捕らえられる。
    8/2 長経が河内にて斬首される。
1511 永正8 7/14 河内で2日以来義尹・義澄方による戦いがあり、義尹方(尚順)は敗れ筒井・箸尾・十市氏は東山内に没落する。
    7/26 没落していた国人衆が帰国、戌亥脇党は自らの館へ、筒井氏は井上氏の館へ、箸尾・十市氏他は乙木・竹内両氏の館へ入る。
    8/2 筒井・十市・箸尾氏と戌亥脇衆が古市方六寸の城を攻め破る。古市氏は春日山へ逃げ、東山内吐山・多田・小夫衆ら七十人が討死する。
    8/24 丹波に没落していた義尹が入京、以後体勢を整える。
1516 永正13 10月 越智家教・古市氏が成身院順盛(順宣)・十市氏を唐院に破る。
1520 永正17 2/17 義英・越智氏が尚順の子稙長・遊佐氏を高屋城に攻める。尚順・筒井氏の合力は無く、高屋城は翌月17日に落城する。
    5/8 筒井勢が古市方超昇寺・山村・柴屋の在所を焼き、古市公胤を油山城に攻め落とす。古市氏内衆の井上九郎・山村・藤原氏が筒井方へ寝返る。
    5/10 先に高屋城を追われた畠山稙長・遊佐氏が河内へ還住、代わって義英は越智氏の手引きで吉野へ落ちる。
    5/29 古市・高山・超昇寺氏が奈良の筒井方中坊氏の陣へ夜討ちを掛け、中坊氏を破る。奈良は古市氏の支配下に置かれる。
    6/3 中坊美作守・筒井勢が古市勢を破り、古市勢は大平尾へ退く。
    6/10 中坊美作守が奈良中の筒井勢を集めて今市城に入る。古市勢は奈良へ進出して対抗する。※この日、細川澄元が阿波で没す。享年32歳。子の聡明丸(のち晴元)が跡を嗣ぐ。
    6/19 畠山稙長が細川高国と相談して筒井・越智両氏の和睦を進める使者を発すが、筒井順興はこれを拒否する。
    10/9 法隆寺にて筒井・越智両氏の和睦についての談合があり、越智党の古市氏支配下にあった筒井方与力超昇寺・高山・根尾・番条・嶋各氏の所領の返還等が話し合われる。
1521 大永1 3月 将軍義稙が高国と不和となり和泉のち淡路へ赴き再挙を期す。
    6/5 筒井順興が越智氏の娘を娶る。
    10/24 尚順と義英が和睦し堺に入った義稙に応じ、高国は稙長に義英を討たせる。越智・筒井両軍が稙長勢に合流、義英勢を破る。
    11/14 古市・万歳・岡・箸尾・片岡各氏の義英方加担が判明したため筒井順興が古市・鹿野園・鉢伏・藤原ら古市方へ大軍を派遣して焼き討ちする。
1522 大永2 8/17 畠山尚順が淡路において急死。享年48歳。稙長が跡を嗣ぐ。
1524 大永4 11/13 稙長が遊佐氏に義英の拠る河内仁王山城を攻めさせる。筒井勢はこれに合流して竜田へ出陣、越智氏も従う。17日には布施・万歳氏以下「各当國衆悉以河内ノ国分迄被出陣」。
    12/9 稙長方が仁王山城を攻略、敗れた義英は高野山へ潜む。
1527 大永7 3月 三好元長が足利義維・細川晴元を奉じて堺に上陸する。
    12月 筒井順興・越智民部少輔が稙長とともに京都四条・五条に布陣して義維軍に備えるが、翌年二月五日に大和へ帰る。

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