戦国筒井氏年表 No.6
永禄二(1559)年〜永禄十二(1569)年
* 印は閏月を示します。
西暦和暦日付事績
1559 永禄2 8/10 三好長慶が高屋城に安見直政を攻め破り畠山高政を入城させ、その勢いに乗じて長慶家老の松永久秀が大和に乱入、大和国人衆と戦いこれを破る。筒井・十市・万歳氏は没落するが越智氏は記録に「出張」と見え、動向は微妙。
1560 永禄3 7/24 松永久秀が井戸城を攻め、救援に出陣した筒井衆を破る。
    7/28 井戸城が久秀方に明け渡される。
    11月 久秀が檜牧城に沢氏を攻める。
    11/13 久秀が万歳城を攻め、万歳氏は久秀方となり開城する。
1561 永禄4 −− この年、久秀が南都眉間寺を壊し、多聞山城を築く。
1562 永禄5 3/5 畠山高政が紀伊根来衆・十市遠勝らと和泉久米田に三好実休(義賢=長慶の弟)を破り、三好方にあった高屋城を回復。実休は討死。
    7/16 久秀方の箸尾為綱が伴堂・金剛寺両城を破却、箸尾城を築く。
1563 永禄6 1/27 久秀が多武峰衆徒を攻めるが敗れ、壺阪まで退く。
1564 永禄7 3/19 藤勝の後見を務めた筒井順政が堺で客死する。
    7/4 三好長慶が飯盛城で没す。享年43歳。養子重存(義継)が跡を嗣ぐ。
1565 永禄8 5/19 久秀・義継らが将軍義輝を殺害、次男の興福寺一乗院門跡覚慶(後の義昭)を同院に幽閉する。
    10/8 丹波の波多野晴通・荻野(赤井)直正が山城長坂口に出陣、久秀は多聞山城より竹内秀勝を差し向ける。対して秋山・小夫氏と多武峰衆が申し合わせて出陣準備を進め、山田某と郡山・超昇寺衆も多聞山城攻撃態勢を調える。
    10/11 竹内秀勝が京から戻り、釜口に布陣する。
    10/15 小夫城が開城、小夫氏は多田(東山内)へ逃れる。
    10/18 十市氏が訴訟のため多聞山城に入る。
    11/15 三好三人衆が義継を擁して飯盛城を攻略、久秀と関係を絶つ。
    11/18 筒井藤勝が布施城へ入る。「國中心替衆數多在之」と見える。
    11/19 阿部山・ナベ塚城が落城。十市郷南部が焼き払われる。
    11/26 布施氏が松永方の高田郷を焼く。
    12/15 井戸氏が松永方古市郷を焼く。筒井より中坊駿河守が二千の兵を率いて出陣、松永方から井戸城を奪回して入城する。
    12/20 郡山辰巳氏が松永方に寝返り、大安寺・辰市へ兵を出す。
    12/21 筒井党への援軍として河内から三好三人衆の軍勢が二千の軍勢を率いて大和へ入る。多聞山城から兵が出陣するが大事には至らず。
    12/26 三好三人衆が撤退する。多聞山勢が宝来・西京を焼く。
    12/28 多聞山勢が西京へ押し寄せる。
1566 永禄9 1/15 越智伊予守家増が筒井氏から貝吹城を受け取り入城する。
    2/4 筒井衆へ多聞山城から久秀方が討って出、筒井衆二十余名が討たれる。久秀は多聞山城に帰陣する。
    2/17 三好三人衆が畠山・遊佐勢と河内に戦い、大勝する。畠山・遊佐方は堺へ逃げる。討ち取った首は実検分の463を含め、1000程という。
    4/10 三好三人衆が四千の兵を率いて大和へ入り筒井勢と合流、翌日奈良付近の五本松まで迫る。
    4/21 美野庄城が和議にて筒井氏の手に渡る。
    4/26 三好三人衆・筒井勢が筒井城攻略へ向かう。
    5/24 久秀が河内へ出陣するが、この日の戦いで多くの人数を損う。
    6/1 大安寺南大門前で郡山衆(筒井方)と多聞山衆による合戦があり、両軍数名の戦死者が出る。
    6/8 筒井平城が和議により落城、筒井勢が松永方から同城を奪還する。
    8/9 三好三人衆の兵千余が片岡まで出陣する。
    9/25 藤政(順慶)が五千の兵を従え奈良へ入る。西手掻で多聞山衆と山田・井戸衆の間に合戦があり、多聞山衆が少々討ち取られる。
    9/28 筒井藤政が成身院にて得度、陽舜房順慶となる。
    12/2 多聞山衆が吐田郷を焼き払う。
1567 永禄10 4/5・6 久秀が和泉堺から大和へ入る。
    4/7 順慶が奈良の陣を引いて自城へ戻る。
    4/11 久秀が多聞山城へ入る。
    4/18 三好三人衆が一万余りの軍勢を率いて奈良近辺に陣取り、付近の通行が不能となる。
    4/24 天満山・大乗院山に三人衆と順慶勢が陣を移し、対する久秀勢は寺内(東大寺か)の塔や南大門に登り鉄砲を放つ。このため昼夜分かたず「雷電の如き」銃撃戦となる。
    5/2 石成(友通)・摂津池田衆以下約一万の兵が東大寺へ陣替え、念仏堂・二月堂・大仏殿の回廊などへ布陣する。久秀勢は戒壇院に楯て籠もる。
    5/5 池田衆・三好山城守(康長)の交替として四・五千の兵が来着する。
    5/17 摂津の池田勝正が自ら西方寺に着陣。下野守(三好政康)は天満山から七・八千の兵とともに西ノ坂へ陣替えし、念仏堂にいた石成配下の衆は氷室山法雲院裏手の畠に布陣する。筒井順慶は大乗院山を動かず、東大寺内への通路を絶つ。
    5/18 東山から多聞山へ攻め寄せ、敵に陣取らせないよう多聞山より焼き払う。般若寺・文殊堂など多数の伽藍が焼け、飛び火して戒壇院の授戒堂はじめ南北水門まで悉く焼ける。
    5/19 花厳院で釣閑斎(三好政康)・石成・川合が参会、談合する。
    5/23 早暁、池田衆が「マメ山」へ移動する。
    5/24 多聞山より無量寿院を焼く。三好三人衆が法輪院へ入ると久秀勢は多聞山から火矢を放ち、寶徳院・妙音院・徳蔵院・金蔵院以下悉く焼ける。
    5/28 秋山衆が無量寿院屋敷門の築地に櫓を上げて押し寄せ、死者二名・手負い少々を出す。
    6/4 夜、筒井衆が興福寺内へ火矢を放つが、火災は起こらず。
    6/5 順慶が龍花院方の発心院・中蔵院・千手院・大聖院・安養院・谷坊・慈明坊へ陣を移す。
    6/17 信貴山衆(松永方)が箸尾衆(同為綱方)とともに筒井郷椎木・小泉周辺に放火する。
    6/27 花厳院にて順慶が三好三人衆に久秀との和睦をもちかける。
    7/23 三好三人衆の調略により松永方五人が内応、東大寺戒壇院・千手堂を焼く。
    8/25 飯盛城の松山安芸守が久秀方に寝返る。
    8/26 三好三人衆の石成ら二千の兵が河内へ向かう。
    9/4 根来衆が三人衆方の吐田郷を焼く。
    9/5 根来衆が幸田城を攻めるが落とせず退く。
    10/10 東大寺大仏殿の三人衆の陣に久秀方が攻め掛け、大仏殿が焼ける。氷室山の別所・郡山辰巳勢は陣を焼いて落ちる。
    10/15 松山安芸守が三好三人衆に飯盛城内の私宅を攻められ和睦し堺へ退く。安芸守は再び三人衆方へ付く。
    10/21 飯盛城を篠原長房・三好日向守長逸が請け取り入城する。
1568 永禄11 2/20 十市遠勝が秋山氏を森屋城に攻め落とす。
    3/11 十市遠勝が三好山城守・篠原弾正と誓紙を交わす。
    8/17 三好三人衆が六角承禎と談合すべく近江へ下る。
    9/25 箸尾氏が十市郷五ヶ所を焼く。
    9/26 織田信長が足利義昭を擁して上洛する。
    9/27 箸尾氏と竜王山城を陥れた秋山氏が十市郷で苅田・放火する。
    9/28 久秀が上洛した信長に人質として廣橋氏の娘を差し出す。
    9/29 信長が三好三人衆の一人石成友通を勝竜寺城に攻め破る。
    9/30 信長が山崎に着陣、芥川城にいた三人衆の三好長逸と細川昭元は夜になって退散する。
    10/4 信長が久秀に大和一国の支配を認める。大和国人衆も井戸氏以下の筒井党与力衆が義昭に拝謁し、信長の配下に属すことを求めるが拒否される。
    10/8 松永久通が筒井城を攻め、再び奪回する。筒井氏は城を脱出する。
    10/10 信長配下の細川藤孝・和田惟政・佐久間信盛らが二万の大軍にて大和へ入り、窪城の城を開城させる。森屋城も久秀方に渡る。
    10/15 豊田城が落城する。
    10/19 井戸城周辺他四ヶ所に布陣していた久秀勢が布施城へ向かう。
    10/21 柳本・福智堂が久秀方に寝返る。
    11/9 久秀の子久通が秋山衆を先手に、十市衆を大西城に攻め落とす。
1569 永禄12 4/8 久秀父子が三好義継・畠山高政らとともに片岡城攻めに出陣する。
    4/16 片岡城が落城する。
    4/18 久秀父子が万歳城を攻める。
    5/10 久秀父子が貝吹城を攻めるが自軍に損害を出す。
    5/16 久秀父子が井戸表へ陣替えする。
    5/18 久秀父子が御所の一向宗道場を破却する。
    7/23 久秀方が東山内の小夫城を陥れる。
    7/24 久秀方が深川を攻める。
    10/24 久秀の軍門に降った十市遠勝が没す。十市氏家中が二派に分裂する。
    10/29 久秀が多聞山城下の法蓮郷に市を立てる。
    11/4 越智氏の貝吹城が久秀方に渡る。また近々北里にも久秀が市を立てるとの風聞が伝わる。
    12/9 筒井・興福寺衆五百が十市城に入り今後について談合するが決裂、久秀派の河合権兵衛以下六名は城を出て今井に移る。

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